後半の資料を掲示します。
4.昭和8年同年会・白石不惑会(明治25年生)寄進、神明社境内御水屋の水槽題字
「奉納 七十翁今泉定助敬書」
5.昭和14年12月3日に再建された白石斎川鎮座田村神社の甲冑堂(これだけはちょっと遠いです。)
再建落成式に、西郷従徳、徳富蘇峰、久松潜一らと参列する。(展示施設があります。)
(田村神社甲冑堂略記による)
6.昭和16年明治33年生同年会による神明社境内御神木(伊勢神宮より下賜)の碑「御神木」題字
7.昭和16年白石神明社拝殿に、今泉によって奉納された、有栖川宮幟仁親王以下内閣総理大臣経験者9人及び今泉本人「鏡」を含む46人の奉掲額
今泉の故郷白石に対する愛着の念を感じ取ることが出来る。
8.昭和17年当時の白石町の町議を経て境内に建立された「今泉頌徳碑」
及び白石城二の丸跡に建立する「今泉記念碑」
除幕式当日、東京から今泉を始め八角中将等、地元からは、朝倉町長以下町の有力者が、多数参列している。
(参考)
白石市「同年会」についての概要
旧白石町内の産土神である白石神明社には男子、数え42歳の正月、同年会を結成し、神社に物品を寄進する風習がある。元来42歳の厄については関心が高く、この厄祓いのためには少々の出費は惜しまないとの風習があつた。大正初頭の第一次大戦と初期資本主義の好況により奢侈に流れ、盛大な祝宴をおこなう例が多くみられた。そうしたなか大正7年、42歳を迎えた人々が、その出費を社会貢献に提供しようと相談し、当時、神明社は白石大火により焼失し、益岡公園の現在地に移転後、日も浅く神社は未整備であり、また公園も拡張中であり、その公園及び神社の入口の旧益岡(白石)城の内堀に石橋をかけることを決定した。この大正7年における同年会の結成、及び活動によって寄進の風習が形作られ次の年に受け継がれ、連綿として同年会は結成された。終戦直後、途切れたかに見えた同年会結成が数年を置いて復活し、既存の同年会と共に社頭を賑わし、神社への寄進以外に時代の潮流に乗り、地方公共団体、社会福祉施設、学校等へも寄付を贈るようになった。
佐藤俊彦『白石における産土信仰(1)―同年会を中心としてー』
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