2011年3月12日土曜日

今泉定助研究会第3回勉強会実施の延期

三月十三日実施の勉強会及び二十日の白石調査は地震の為、夏期まで延期します。

2011年3月10日木曜日

宮城県白石市勉強会資料(2)

後半の資料を掲示します。

4.昭和8年同年会・白石不惑会(明治25年生)寄進、神明社境内御水屋の水槽題字
   「奉納  七十翁今泉定助敬書」

5.昭和14年12月3日に再建された白石斎川鎮座田村神社の甲冑堂(これだけはちょっと遠いです。)
再建落成式に、西郷従徳、徳富蘇峰、久松潜一らと参列する。(展示施設があります。)
(田村神社甲冑堂略記による)

6.昭和16年明治33年生同年会による神明社境内御神木(伊勢神宮より下賜)の碑「御神木」題字

7.昭和16年白石神明社拝殿に、今泉によって奉納された、有栖川宮幟仁親王以下内閣総理大臣経験者9人及び今泉本人「鏡」を含む46人の奉掲額
今泉の故郷白石に対する愛着の念を感じ取ることが出来る。

8.昭和17年当時の白石町の町議を経て境内に建立された「今泉頌徳碑」
及び白石城二の丸跡に建立する「今泉記念碑」
除幕式当日、東京から今泉を始め八角中将等、地元からは、朝倉町長以下町の有力者が、多数参列している。

(参考)
白石市「同年会」についての概要

旧白石町内の産土神である白石神明社には男子、数え42歳の正月、同年会を結成し、神社に物品を寄進する風習がある。元来42歳の厄については関心が高く、この厄祓いのためには少々の出費は惜しまないとの風習があつた。大正初頭の第一次大戦と初期資本主義の好況により奢侈に流れ、盛大な祝宴をおこなう例が多くみられた。そうしたなか大正7年、42歳を迎えた人々が、その出費を社会貢献に提供しようと相談し、当時、神明社は白石大火により焼失し、益岡公園の現在地に移転後、日も浅く神社は未整備であり、また公園も拡張中であり、その公園及び神社の入口の旧益岡(白石)城の内堀に石橋をかけることを決定した。この大正7年における同年会の結成、及び活動によって寄進の風習が形作られ次の年に受け継がれ、連綿として同年会は結成された。終戦直後、途切れたかに見えた同年会結成が数年を置いて復活し、既存の同年会と共に社頭を賑わし、神社への寄進以外に時代の潮流に乗り、地方公共団体、社会福祉施設、学校等へも寄付を贈るようになった。
佐藤俊彦『白石における産土信仰(1)―同年会を中心としてー』

宮城県白石市勉強会資料(1)

三月六日勉強会資料を掲示します。白石観光の折にご利用下さい。白石城址の中に多くの碑が点在します。

生誕の地白石市における今泉定助先生と皇道思想関係史跡
(大正7年に始まる「同年会」と思想的連係を、持ったと考えられる碑文等)                
1.大正4年晩秋、神明社鳥居横に建てられた「片平観平碑」(碑文選定・今泉)
要旨
大堰補修工事は従来からしばしば行なわれ、領主の命令で村々から内雇人足を徴集しているが、このごろ各村は人手不足で難渋し上下の憂いになっている。これを見て情けなく存じ、自ら憤激し自分金をもって御届けの上に切通しの請負をいたし)
と白石地域農村救済のため、天保元年から10年かけて、私財を擲って切通し工事を完成した、片平観平の顕彰を行なったものである。この碑文選定を通して、故郷白石地域の人々との地域共同体の一員としての具体的公益の実践方法の共有を持ったものと考えられる。

2.大正6年10月白石城二の丸跡に建立された「横綱谷風・大砲の碑」
(今泉による碑文撰并書)
碑文の中で、
(郷土の先輩横綱谷風に対し)大砲その徳を慕い其の英霊を祭らんとす是聞き地方有志もまた其の擧措賛し碑を建てもって後毘を伝ふ
とし、横綱大砲の碑文では、
人となり温良郷党を恵愛し又頗る谷風の偉徳を敬慕す古今世を異にすと雖も其の鷹揚鵬撃の状は相同じ、地方の有志相謀り両横綱の雄風を永久に傅へむが為め建碑の擧あるに當り大砲率先敷地二反五畝餘を町公園に寄附して此の擧を翼賛せり今その顛末を記して不朽に傳ふ
と大砲の地方共同体の先人に対する、敬慕と礼節、そして公益の実践を撰文し、横綱大砲を迎えての除幕式と、横綱の碑建立記念大相撲の実施を通じて、白石地域の人々に、広く伝えられたものと考えられる。

3.昭和2年4月16日神明社鳥居横に建てられた、村社から郷社昇格時の「郷社神明社」名号字
神社昇格請願活動に係る今泉と、白石地域の人々の産土神を通じての強い結びつきが窺われる。

2011年3月8日火曜日

今泉定助研究会第2回勉強会の実施

宮城県白石市に於ける勉強会は三回に亘って実施される事となった。その一回目は三月六日・地元白石市の日下先生と三宅先生のお二人、生誕の地白石市における今泉定助先生と皇道思想関係史跡を巡る勉強会となった。先ず最初は白石城歴史探訪ミュージアムで勉強会資料に基ずく今泉定助先生の略歴・思想の概要説明を受けて頂いた後、大正6年10月白石城二の丸跡に建立された「横綱谷風・大砲の碑」(今泉による碑文撰并書)と昭和17年に白石城二の丸跡に建立する「今泉記念碑」を見学、次に昭和2年4月16日神明社鳥居横に建てられた、村社から郷社昇格時の「郷社神明社」名号字と大正4年晩秋、同じく神明社鳥居横に建てられた「片平観平碑」(碑文選定・今泉)そして境内に入って昭和8年同年会・白石不惑会(明治25年生)寄進、神明社境内御水屋の水槽題字と昭和17年当時の白石町の町議を経て境内に建立された「今泉頌徳碑」・昭和16年明治33年生同年会による神明社境内御神木(伊勢神宮より下賜)の碑を拝見した後、神明社拝殿に上げていただき昭和16年、今泉によって奉納された、有栖川宮幟仁親王以下内閣総理大臣経験者9人及び今泉本人「鏡」を含む46人の奉掲額を資料と照らし合わせて勉強、参加者からは神社の宝ですねとの声が上がっていた。その後参集殿で佐藤宮司のお話しを聴きながら掛け軸今泉定助先生絶筆「世界皇化」拝見と続き、最後は私が気になっていた碑を参加された先生に案内いただき白石第一小学校横で「明治天皇東北行幸記念樹」碑に今泉定助翁寄附并書を見ることが出来、私としての新たな先生の足跡を発見して感激、実りある一日となりました。次回二回目は三月十三日宮城県下からの参加者対象の勉強会、第三回は今泉先生の指導者・山田信胤先生の調査、これらの勉強会を通じて今泉先生生誕の地・白石市そして宮城県で一人でも多くの人々に、今泉思想:皇道(日本精神)神人合一の生成思想「生む」「成る」を知る切っ掛けとなってほしい願っている。

2011年3月2日水曜日

久伊豆神社小教院開講満25周年記念講義

2月28日の久伊豆神社小教院は開講満25周年を迎え、國學院大學教授阪本是丸先生による『小教院の原点に立ち返るー「三条の教則」が意味するものー』と題した記念講演が行なわれた。小教院とは、明治5年3月に設置された教部省による国民教化政策の推進を狙った神仏教導職の中央教化センター東京の大教院及び各府県の中教院に対し、全国津々浦々の神社・寺院を小教院として神官・僧侶である教導職が国民を教化する場として名付けされたもので、「三条の教則」をもって実践された。その教則とは、第一条 敬神愛国 第二条 天理人道 第三条 皇上奉戴・朝旨尊守であるが、阪本先生は明治8年に刊行された真言僧・島地黙雷による『三条弁疑』における「敬神」論を取り上げ、この中で記紀における神、木霊、蛇、と天照大神との違いは何かを問い、真宗においては天照大神を天皇の祖先神と位置づけ、これが一般化しその後政府レベルの見解になっていき、大教院での神仏合同布教の中止・明治17年には教導職の全廃となったとした。神道にとって「神」とは何か!國學院大學でこの春から阪本先生が、「神道神学」を講義されるという事だが小教院でもお聞きしたいものであります。自分にとっては、皇道(日本精神)は、宇宙の主宰神たる天之御中主神・天照大神・天皇そして自分自身の神人合一の生成思想「生む」「成る」和の思想と捉え、外来の思想は客観的相対的な存在思想「在る」で神とも対立するものと考えている。今週末から始まる宮城県白石市で行なわれる勉強会も神明社を中心に実施を行なうが、これも現代の小教院と言われるものにしたい。